〜大里東小学校〜 これが私たちの学校です。

稲沢市の南東に位置する全校児童511人(令和5年4月現在)の学校です。
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学級(内、特別支援学級2クラス)の中規模校です。
開校は昭和28年で、今年で71周年を迎えます。

 

里東には『歴史のにおい』がいっぱい!

 学校のすぐ近くに美濃路(みのじ)という街道(かいどう)があったのをご存じでしょうか?江戸時代の五街道のうち交通量の多かった東海道と中山道を結ぶ脇街道(わきかいどう)として発達したのが美濃路です。名古屋の熱田から東海道で京都へ行くには,「七里の渡し」で舟に乗らなければなりません。そこで,遠回りにはなっても安定性のある美濃路を利用する人が多かったようです。美濃路沿いで見つけた歴史を紹介します。
*参考文献「美濃路」日下英之著

こがし祭

こがし祭は,立部神社で毎年7月の下旬の土曜日に行われているお祭りです。五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願して行われます。祭りの主役は2台の山車(だし)で,稲沢市指定文化財になっています。この祭りの由来にはいろいろあるそうですが,その一つに,江戸時代にききんが起きたとき,村の名主の夢枕に須佐之男命(すさのおのみこと)があらわれ,「少しの麦でもいいからお供えしてくれ」というお告げどおりにしたところ,ききんがおさまったため,神様に感謝する祭りが始まったとされています。このとき,お供えした団子の名を「こがし」といったことから,「こがし祭」と呼ばれるようになったそうです。

「四ツ家追分」碑

学校から東にあるJRの踏切をわたった四つ角にある石碑です。
この場所は,北へ向かう岐阜街道と西へ向かう美濃路の分かれ道になるところで追分(おいわけ)と呼ばれます。旅人が休むための茶屋が数軒あり,うどんが名物で,「四ツ屋うどん」として評判が高かったようです。

道標(長光寺)

この道標はもともとは,四ツ家追分にありました。1819年(文政2)に建てられ,「右 ぎふ并浅井道」,「左 京都道并大垣道」と刻まれていました。
  その後,ダンプカーがぶつかって折れ,今は長光寺に移されました。

丹羽盤桓子  出生地の碑

丹羽盤桓子(にわばんかんし)は,1773年(安永2)に井之口四ツ家町に生まれました。尾張藩の書家として有名です。4,5歳で行書体を習得し,7歳で丹羽嘉言に入門し,四か月で卒業しました。楷書の細字に優れ,第11代尾張藩主徳川斉温(なりはる),藩校明倫堂の書生をはじめ,門人は全国に数多くいました。
  1840年(天保11)の冬,病にたおれ,翌年3月69歳でなくなりました。六角堂の長光寺にほうむられ,墓は寺内の南墓地にあり,
「志正院慎篤ヒ居士」の碑がそれです。

地蔵堂(長光寺)

六角堂の通称で親しまれている長光寺は,街道沿いにあり,臨済宗妙心寺派に属する寺です。尾張六地蔵の一つで,境内の真ん中に建つ地蔵堂が六角の円堂になっているため,六角堂と呼ばれるようになり,地名の由来にもなりました。
  平清盛(たいらのきよもり)の弟,頼盛(よりもり)が1161年(応保元)に寄進し,建てられました。その後,足利尊氏(あしかがたかうじ)が1338年(延元3)に復興させたのをはじめ,織田氏や徳川氏の保護を受けました。

  地蔵堂の中には重要文化財の「鉄造地蔵菩薩立像(てつぞうじぞうぼさつりゅうぞう)」が納めれています。この地蔵は,世の中に悪いことが起こる前になると全身に汗をふきだし,人々に知らせるという言い伝えがあり,「汗かき地蔵」とも呼ばれています。 
  ほかにも長光寺の境内には臥松水(がしょうすい)という井戸があります。織田信長が,この井戸の水を愛飲したといわれています。清洲城や岐阜城までとりよせたとも伝えられています。

役所橋

春日村分地(わけじ)には,かつて清須代官所が置かれました。六角堂町をとおる美濃路のすぐ東を流れる川に「役所橋」がかかり,ここから東へ役所道が延びていました。

亀翁寺

亀翁寺(きおうじ)の創立は遠く鎌倉時代と言われています。曹洞宗の尼僧寺です。ここに安置されている「木造虚空蔵菩薩坐像(もくぞうこくうぞうぼさつざぞう)」は,南北朝時代の寄木造(よせぎづくり)で重要文化財に指定されています。たいへん美しい姿をしていますが,25年に一度しか拝むことができません。みなさんがじかに拝むことができるのは,2019年だそうです。