【大里東小学校の歴史】

       

終戦の年に入学 −昭和20年−
 カラン・・カラン・・カラン・・用務員さんが、手振りの鐘を鳴らしながら校内をまわる。これが始業と終業の合図だ。実に懐かしい音色で、50年以上も前の事だが、今でも脳裏に焼きついている。
 昭和20年4月、大里村立大里国民学校(東分教場)への入学が私たちである。第二次世界大戦がその年の8月15日に敗戦終結するとは誰もが予想もできない春だった。当時から、学校の所在地は現在の場所であった。学校の周りはほとんど田畑で人家は少なく、学校のすぐ裏(北十字路の北西角)に文房具店があり、名鉄奥田駅方面につながる砂利道には、いろいろに美しい形をした松並木があったと記憶している。校舎はもちろん木造で、ポプラの大きな木がうまく点在していて学校らしさを醸し出していた。運動場は狭く、しかも、その半分以上はさつまいも畑であった。食糧難からか、勤労精神を身につけるためなのかは定かではないが、4年生頃(写真も4年生の秋)、ソフトボールをするのに苦労をしていたように思う。

 何故か、1〜3年生の思い出となる写真が無い。学級写真など撮る余裕がなかったのかもしれない。特に1年生の4月から8月までは戦争下であり、空襲警報のサイレンが地域に流れると、全生徒は、先生の指示に従ってすぐに下校したものだ。時には下校が遅れて、途中でカンサイ機(アメリカの攻撃機)に襲われ、機関銃の弾あらしを受け、田んぼにあるわら積み山にかくれた恐ろしい思い出もある。機中の操縦士の姿がはっきり見えるほど低空飛行で狙撃されたことは忘れることができない。
 子どもたちは、夏などはほとんど裸でおり、靴や下駄はなく裸足でいた。いつ頃だったか確かな記憶はないが、万年ぞり(当時では、長持ちしたと思われるゴムの草履)が流行し、ほとんどの子が履いた。
 食糧難だったであろう。写真に写る私たちはみんな腕は細く、肋骨があらわに見える。またそれが、今見ると何とも言えない可愛らしさを感じる。

先生といえば、みんな厳しく、特に男の先生の中には国防色の軍服姿もあり、背筋はピンと真っ直ぐで、悪でもしようものなら徹底的にしかられたものだ。反面、女の先生は、母親のように優しく、細かいところまでよく面倒を見てもらえた。代用教員だった4年4組の大塚先生が結婚?で辞められるときは、クラス全員が「辞めないで・・」と泣いて頼んだことも忘れられない思い出である。
 算数の授業などは、九九の暗記にみんな苦労した。「今日の課題は四の段と五の段の暗記ができた子からソフトボールをしてもいいよ。」と、いつもの調子で授業が進む。みんな遊びたいために必死で勉強した。いつまでも教室に残されて泣いている子もいた。とにかく、子どもにとっては勉強より遊びであることは今も昔も変わりはない。だが、読む・書く・計算(特に九九とそろばん)は一生懸命勉強した記憶が強い。